新座のお墓

新座市は埼玉県南部に位置し、市の南側は東京都に隣接しています。高度経済成長期を以来近年になって急速に発展してきました。
ベッドタウンとして住宅開発が進む一方で、出版・物流業を中心に多くの工場・倉庫などが雑木林や畑地の間に見られる風景が市の特徴となっています。

元々はこの地域には新座郡と呼ばれる地域で、そこには複数の村々がありましたが、町村制が施工されるに伴い、大和田町と片山村の2つが成立しました。
さらに新座郡が廃止されると、この2つの町村は北足立郡に編入されるようになりました。
その中で大和田町と片山村は合併して新座町となり、最終的に市制施行がなされるようになると、新座市として独立することになりました。

新座市内には100ヶ所を超える数の遺跡が残されています。これらは、当時新座市周辺に暮らしていた柳瀬川や黒目川に沿った台地の縁辺部、立川段丘上、微高地等に多く分布し、野火止台地の中央部にも数地点の散布地が存在していると言われています。また、今後の開発の進展によって、まだ発見されていない遺跡が新たに発見される可能性も多いにあります。そのような遺跡の大半は、土器や石器類が散在していたところですが、発掘調査による遺構や遺物の例もあります。

新座市を代表的する神社仏閣と言えば、何と言っても武蔵野の名刹として知られた平林寺となるでしょう。平林寺は武蔵野の一角、野火止台地に広大な境内地を有する禅宗の臨済宗妙心寺派の寺院です。開発の進む武蔵野にあって、往昔のたたずまいを今なお残している貴重な場所です。そのため、平林寺の境内林は昭和43年に国の天然記念物に指定されています。創建当時の鎌倉建長寺の住持だった石室善玖禅師によって平林寺は開山されたと伝えられます。岩槻城主の大田備中守春桂蘊沢居士の帰依により、最初は現在のさいたま市岩槻区に創建されましたが、天正18年に起きた豊臣秀吉の岩槻城攻めの際に伽藍の大半を消失してしまいました。その翌年に江戸入りした徳川家康が、鷹狩の際に岩槻を訪れた際に平林寺の由緒を知り、伽藍再建のための力添えもあって無事に復興されました。復興された建物はすべて今までの外見と同じもので、これには中興された平林寺の檀那である大河内氏の外護に拠るところが大きかったと言われています。

江戸時代に入って、当時の幕府の老中で川越藩主となっていた松平信綱により、江戸と川越の中間地となる野火止の原野に平林寺を移し、松平家の菩提寺としようとしました。そのために完成された玉川上水から分水をさせて野火止用水を通すことによって、近隣の村々を潤し、と同時に平林寺の移建の実現となりました。残念ながら信綱はこの移建を最後まで見届けることはできず、志半ばでこの世を去りましたが、その息子である松平輝綱によってそれらは全て成し遂げられました。
武蔵野の面影を現在まで残し続けている平林寺は、実に640年余りに渡って禅宗の修業の場として広く使われています。そして平林寺内の境内にある惣門・三門・仏殿・中門の4棟は、新座市が選定した指定有形文化財にそれぞれが指定されており、今現在も大切に管理されております。
さて新座市で「お墓」といえば、まず新座市営の霊園がありますが、さらに昨今では市内及びその周辺に民営霊園の開発が断続的に続いてきています。
また市内の各宗派のお寺さんの境内墓地と、ここ新座市はお墓を求める際の選択の幅が広いと言う事ができます。

そんな新座市への交通アクセスを調べてみると、東武鉄道東武東上線やJR武蔵野線と言ったルートが一般的です。また、市内の駅ではないもの、東武東上線柳瀬川駅が北西部に、西武新宿線保谷駅やひばりが丘駅・東久留米駅・清瀬駅といった駅が市南東部から南西部周辺に非常に近いため、そこから西武新宿線を利用することも可能です。特に東武東上線は池袋駅まで1本で進めるルートですし、JR武蔵野線は東京都を囲うようなルートで埼玉県や千葉県まで進める鉄道路線ですので、乗り換えを併用するのであれば、移動範囲は一気に拡大します。このことは、新座市にお墓を用意する場合も、新座市から鉄道路線を使用して、周辺地域にお墓を求めようとする際に、お墓参りの選択肢が広がります。
もちろんこれ以外にも、新座市には市内を西武バス新座営業所と東武バスウエスト新座営業事務所があるため、各駅から周辺地域を回るのに適していますし、市内自体の移動にはコミュニティバスを利用することも良い方法です。

石の武蔵家では新座市でお墓をお考えの皆様のために、優良墓地情報をご紹介しております。ホームページに記載されていない寺院情報や霊園情報もございますから、どうぞお気軽にご相談下さい。

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