東村山市の墓地
東村山市は東京都の多摩地域北部にある市です。人口はおよそ15万1千人。
市域は武蔵野台地のほぼ中央、狭山丘陵の東縁に位置しています。市内に流れている川は全て荒川に注いでいます。
市の西部には狭山丘陵の東の縁があるが、市域の大半は平坦な土地となっています。
かつては伊豆殿堀とも呼ばれる野火止用水や狭山丘陵から流れ出している空堀川から水を引き、畑作が盛んな場所でした。
市の東側は東久留米市や清瀬市、北側には埼玉県所沢市、西側は東大和市、そして南側は小平市にそれぞれ隣接しています。
市域には旧石器時代からの遺跡が各地にあり、主に縄文時代の遺跡が中心で、弥生時代の遺跡は見つかっておらず、
古墳時代の遺跡は後期集落が見受けられるものの、古墳自体は見つかっていません。
平安時代後期には狭山丘陵に武蔵七党と呼ばれる武士団のひとつである村山党が進出し、
一族は鎌倉幕府に仕えましたが、鎌倉末期から戦国時代の間に幾つもの合戦が市域周辺で起きました。
この地域一帯は江戸時代に入ってからの玉川上水や野火止用水などの開削以後は、ようやく新田や畑地が広がることになりますが、
それ以前には川沿いや低湿地などのごくわずかな水田や畑地しかなく、見渡す限りの原始林の広がる原野であったと思われます。
江戸時代に幕府の直轄領となって用水開削が行われるに及んで、武蔵野台地一帯の開拓が進んでいきます。
そして明治時代に入ると市域の各村は所属を変えながらも発展を続け、
明治22年(1889)に伴う町村制施行に伴い、現在の東村山市の原型となる東村山村が発足しました。
その後、鉄道開通による宅地化等もあり、発展を続けて現在に至ります。
市内には臨済宗建長寺派の禅宗寺院、の正福寺があり、そこには多摩地区で唯一の国宝建造物である千体地蔵堂があります。
室町時代の応永14年(1407年)建立とされ、鎌倉円覚寺舎利殿とほぼ同一の規模・様式であり禅宗様(唐様)建築の代表的遺構とされています。
そんな東村山市で墓地を探す場合、お墓探しに際して重要なことは、家から墓地までの距離や交通手段となります。
特に将来、いつまでも自分で車を運転してお墓参りや、
自分の足でお墓まで歩いてお参りに行くといった行動がずっと出来るとは限りませんから、
墓地見学の際には、周辺の公共交通の実態を把握しておくことは大切なことです。
東村山市の交通状況について調べてみると、この地域は西武鉄道の複数の路線が通っているのが特徴で、
特に中心駅となる東村山駅については新宿線や国分寺線・西武沿線といった路線の乗換駅となっており、
都心からのアクセスには欠かせない存在となっています。そしてJR武蔵野線の新秋津駅も市内にあります。
東村山駅をはじめとする各駅からのアクセスについても、西武バスやコミュニティバスが運行しています。
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